幸せペンタゴン 私のアオハル ~輝きの時~ ⑤
昨秋、還暦を過ぎ、古い友人達と久しぶりにあった。一人が「いつも今が一番面白い、昔は振り返れへんのや。」とニコリ、同じこと考えてるな、と何だか嬉しく、穏やかな風が流れた。彼らとは、16歳から24、5歳まで、時には毎日のように会っていた。
僕は、校内暴力で荒れる中学での成績優等委員長イメージに疲れ、進学校でドロップアウトした。動機は極めて単純、早く社会を見たい、世界と関わりたい一心。工場・セールス・土方。バイトの金で、ラグビー部や取り巻く連中と、若さゆえ暴走した。僕は一浪して大学に滑り込むがちっとも行かず、飲屋で働く日々。突然一転、今度は目の前にある建築学や設計にのめりこみ、こちらも又一心。ある時、人の暮らしが見たくて、外の国を歩きたくなった。“いつも今が一番”の彼が「ユーゴスラビアとか東欧」ええんちゃうか、で最初の旅先とした。
1985年秋から1986年春まで、オーストリアからベルリンを経てポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴ、ギリシャ、そしてトルコに2カ月いてスペインに向かった。歩き・スケッチをし、喧嘩をし、小さな恋をした。ベルリンの壁崩壊前の東欧で人は熱く、特にポーランドでは、反体制運動のリーダー含めよく家に泊めてくれた。旅が進むと、風の向くまま歩くようになった。東ドイツのバンド”Hongkong Tits”やユーゴのロス五輪レスリング代表とも国際列車で知り合い、そのまま旅をした。今はもう存在しない国もあるが、時代は“リアル”で、ぶつかれば人は優しかった。それからも僕の旅のスタイルは変わらず続いている。
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高校で出会った僕たちは、やがてそれぞれの道を歩いた。時には凹み閉じていることも、風に押され軽やかに走っていることもあり、たまに会うと彼らの凸凹がよく分かった。僕にも彼らにも、必要な事しか起こっていなかったのだ、と思う。出来事が、春夏秋冬のように開いては閉じ、また繰り返し、再生していく。
さて1985年頃の写真を、段ボール箱から堀り返していると、セロファン紙に包まれた古びた色紙が出てきた。“航海を祈る”1980年とある。んんっ?そうだ、暴走中の僕に、ギター弾きの“椿さん”が認めてくれたものだ。人を信じる穏やかな詩だな、と還暦を過ぎた今、感じる。春夏秋冬の中で繰り返す一期一会。互いの航路を信頼し、すくっとして、この詩のように人と向き合いたいと思う。
昨秋、 “いつも今が一番”の彼との会話に、穏やかな風が流れた。僕は、また繰り返す“新しいハル”の始まりを感じ、何だか“幸せ”で、それゆえ”輝いていた”、と思う。
——航海を祈る———————————
それだけ言えば分ってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る
その言葉で分ってくる
その船が何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交しあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る
それを呪文のように唱えていると
するとあなたが分ってくる
あなたが何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
あなたを醜く憎んでいた人は分らなくても
あなたを朝焼けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分ってくる
あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分ってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分ってくる
白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る
——村上昭夫「動物哀歌」所収 1967 ———–
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株式会社神津仕事室 代表取締役 神津昌哉